「ふぐ」は「ふく」とも呼ばれ、玄界灘
山口県では2500年以上も前から食されてきたと言われる「ふく料理」。ご当地ではふぐのことを濁らずに「ふく」と呼んでいます。ふぐは不遇に通じ、ふくは幸福の福につながると、縁起を担いだためです。
大輪の花のように大皿に盛り付けられた薄造りをはじめ、様々な食べ方があるふぐですが、味噌との相性も抜群。
酒とみりん、それに刻んだ青南蛮を加えて味を整えた味噌を用意し、旬の野菜は素揚げに、ふぐは火が入りやすい大きさに切って、材料を揃えます。陶板(家庭ではホットプレートでも)に味噌を敷き、ふぐと野菜を盛って火をつけ、味噌が焦げない程度に焼きあげます。最後にあさつきを添え、好みで針唐辛子を散らして出来上がり。野菜は、ふきのとうやそら豆、まこもだけなどがオススメで、水分の多い刃物は避けたほうが良いでしょう。下ごしらえとして、一度焼き目を付けておくと出来上がりが早くなり、ふぐも一度炙っておく方が香ばしさが出て身が締まり、水分も出すぎません。ふぐは刺身用のものが市販されていますから、家庭でも意外と手軽にできますね。
味が濃い目なので、日本酒や焼酎の肴としてぴったりで、もちろん、ご飯も進みます。
空白の時を超え、全国に広がった「下関のふく」
2500年以上前から食されてきたと言われる山口県のふぐ食ですが、実際に下関の弥生時代の遺跡からふぐの骨が出土しており、農耕が発達する以前の時代には、ふぐが人々の食生活を支えていたと言えます。
しかし、ふぐといえば代名詞とも言えるのが強い毒となるテトロドトキシン。安土桃山時代、豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を挙げた際、現在の佐賀県唐津市に構えた陣内で、集まった兵士の多くがふぐを食べて中毒死する「事件」が発生します。
以来、幕府からは厳しいふぐ食禁止令がだされ、地元の長州藩でも、ふぐを食べて中毒死した者には、家禄没収・家名断絶の厳しい処分が科せられていたそうです。毛利のお殿さまも、維新の志士たちも、ふぐを味わえなかったと思うと、ふぐの毒ならぬ気の毒ですね。
ふぐ食が正式に解禁されるのは1888年(明治21)。山口県出身の総理大臣、伊藤博文公の働きかけによるもので、以来大正から昭和初期にかけて「ふぐは下関」の名声が全国に広まっていきます。戦後に入ると、下関漁港が取引市場や加工施設を新設してふぐの処理・加工技術を高め、関連イベントや養殖ふぐの取扱を通してふぐの大衆化にも力が注がれるようになり、現在に至る「下関ふく」のブランド化が進んだのです。 現在、ふぐは山口県を代表する特産品となり、山口県の魚、下関市の魚としてそれぞれ制定され、下関市内ではあちらこちらでふぐの像や図柄が見られます。
また、下関ふく連盟では2月9日をふくの日として、祈願祭など行っています。
三田尻の港に立てば、幕末が見える
長州藩のお膝元として、幕末から明治の動乱期に日本の重要拠点となった山口県は、まさに歴史の宝庫。
ふぐの産地である下関にも、宮本武蔵と佐々木小次郎が対峙した巌流島や、高杉晋作率いる奇兵隊が挙兵し歴史の分岐点となった功山寺など多くの史跡があります。
萩に行けば、海に突き出た石垣が美しい萩城址と松下村塾へ続く城下町。津和野へ行けば山城が見下ろす美しい城下町の中心に立つゴシック建築の芸術、津和野カトリック教会が。防府には毛利家の栄華の残り香を今に伝える毛利氏庭園があり、県庁所在地の山口には日本三大五重塔に数えられる瑠璃光寺が迎えてくれます。
萩から続く萩往還の道を進むとたどり着くのが、長州藩の玄関口、三田尻。三田尻の港は今でこそ大きな工場が建ち並ぶ貿易港ですが、かつては江戸、京・大阪、四国、九州を往来する船舶が行き交う海上交通の要衝であり、藩主が参勤交代や領内巡視の際の休泊や、藩外からの客人をもてなす迎賓館として使われた萩藩の公館「三田尻御茶屋旧構内」が「英雲荘」の名で現在も遺されています。
歩けば歴史の教科書をめくるような感激が待っている、山口県。そこは絶品のふぐと共に幕末の空気も味わえる場所です。
「ふぐのみそ焼き」(2人分)
材料
- ふぐの開き2枚
- みそ大さじ4
- 酒大さじ1
作り方
- ふぐは水けを拭く。
- みそと酒を混ぜ、ふぐの身を漬ける。
1〜2日漬け込み、みそがついていたら軽く取り除き焦がさないように焼く。